片倉工業の歴史は、明治初期にさかのぼります。
長野県諏訪郡川岸村(岡谷市)で、片倉市助は長男・兼太郎、二男・光治の協力を得て10人取の座繰製糸(ざぐりせいし)を開始しました。
座繰製糸とは、簡単な木製の器械を使って糸をつむぐ方法で、当時は農家の副業の道具として普及していました。
市助には、兼太郎(初代)、光治、五介(のち、今井家養子)、佐一(2代目兼太郎)という4人の息子がおり、いずれも製糸業に従事しています。
片倉工業は、1873年の創業から150年間に亘り、
社会や地域の皆様とともに歩んできました。
みなさまへの感謝を胸に、
これからもお客さまの期待に応えられる
商品やサービスを提供しつづけて参ります。
片倉工業の歴史は、明治初期にさかのぼります。
長野県諏訪郡川岸村(岡谷市)で、片倉市助は長男・兼太郎、二男・光治の協力を得て10人取の座繰製糸(ざぐりせいし)を開始しました。
座繰製糸とは、簡単な木製の器械を使って糸をつむぐ方法で、当時は農家の副業の道具として普及していました。
市助には、兼太郎(初代)、光治、五介(のち、今井家養子)、佐一(2代目兼太郎)という4人の息子がおり、いずれも製糸業に従事しています。
1878年には、洋式器械を導入した垣外製糸場を開設。地元の製糸家との共同出荷によって品質を高め、1890年には松本製糸場、1894年には川岸製糸場を次々に開設しました。
製糸事業の拡大に伴い、片倉組が設立されます。片倉組設立とあわせて、東京(京橋)に東京支店を開設します。
1901年には「片倉組購繭所」として大宮へ進出を果たし、1916年、現在のさいたま新都心エリアに78,000坪の「大宮製糸場」を開設しました。
1920年には片倉組の事業を継承し、当時の日本において業界屈指の資本金5,000万円で、片倉製絲紡績株式会社を設立。本社組織を東京の京橋に置き(現・東京スクエアガーデン)、製糸所18か所を運営します。初代社長には2代目片倉兼太郎(市助の四男・佐一)、副社長に今井五介(市助の三男)が就任しました。
輸出生糸の品質向上をはかるためには、繭の品質統一とその改良が課題となっていました。1914年には、今井五介が「大日本一代交配蚕種普及団」を設立し、その後、片倉に合併。病気に強く品質が良い「一代交配蚕種」を農家に無償配布し、優良原料繭の生産に貢献しました。
日露戦争当時(1904年)、今井五介は御法川直三郎により発明された多条操糸機に着目。御法川式多条繰糸機の完成実用化にむけて、積極的に協力を行います。1921年には、大宮・石原両製糸所に「多条繰糸機(KM式)」を試験的に設置して研究。1933年には自動繰糸機を開発し松本製糸所に導入しました。御法川式繰糸機で生産され「片倉ミノリカワ・ローシルク」と名づけられた生糸は、高級生糸として世界中から称賛を受けました。
1921年には横浜出張所を開設し、生糸の輸出をスタートします。
1923年9月の関東大震災により、横浜港の貿易が途絶えた際は、即座にニューヨークに社員を派遣し、1924年にニューヨーク出張所、1934年にリヨン代理店を開設しました。そして、「片倉ミノリカワローシルク」は世界に輸出されました。
今井五介は1933年に74歳で社長に就任しました。(2代目兼太郎は会長に就任)
蚕種の製造や普及活動、御法川式操糸機の開発、生糸取引の改革などに尽力し、社長就任後には、全国製糸業組合連合会、日本中央蚕糸会、日本蚕糸統制株式会社、日本蚕系科学研究所などの中心人物となり、日本の蚕糸・製糸産業の発展に、大きな功績を残しました。
また、活動の場は日本に留まらず、米国との積極的な交流を通じて「世界のシルク王」と呼ばれるまでになりました。
日本の製糸業を取り巻く環境は厳しさを増し、片倉工業でも製糸業の縮小を余儀なくされます。
1967年には、大宮工場(現・コクーンシティ周辺のエリア)の敷地内にゴルフ練習場をオープンし、その後、1972年には大宮工場を休止します。
この時期から、片倉工業は工場跡地を活用した不動産事業を拡大していきます。
1971年に移転した取手製作所の工場跡地を再開発し、1973年、取手ショッピングプラザをオープンします。
大宮工場跡地は、時代の変化や地域のニーズに応じて、変化・発展を続けます。1983年には、大宮カタクラパークを開業し、レジャーや商業利便性で地域生活に貢献しました。
富岡製糸場で生産された生糸は、世界中から「最高級品」と認められ、富岡製糸場は製糸業界のシンボルとして輝かしい軌跡を残してきました。しかし、生糸価格の低迷や、政府の減産政策による繭の不足、化学繊維の普及によるシルク需要の低迷、安価な輸入品の増加などにより、日本の製糸業は衰退していきます。
1987年3月5日、富岡製糸場は惜しまれながらもその長い歴史の幕を閉じました。
生糸需要の衰退により、1994年、片倉工業最後の製糸工場となった熊谷工場を閉鎖し、121年に及ぶ片倉製糸業の歴史に幕を下ろしました。
その熊谷工場の繭倉庫は、現在「片倉シルク記念館」として、日本の近代化を築きあげた製糸業の歴史やその役割、地域との関わりや先人たちが残した足跡を保存し、後世に伝え続けています。
9月17日に、さいたま新都心駅前社有地に、コクーン新都心(現:コクーン1)を開業。
オープン当日の入場者数は10万人を超える大盛況で、2005年8月1日には、当初計画より1カ月前倒しで、累計来館者数1,000万人を突破しました。
“コクーン”は英語で「繭(まゆ)」を意味します。
片倉工業の祖業である製糸業は、繭から生糸を紡ぎシルクを生産するものです。
長きに亘って事業を行ってきたこの地で、今後はお客様とともに新しい歴史を紡いでいきたいという想いをこめて“コクーン”とネーミングされました。
片倉工業は富岡製糸場の歴史的・文化的価値を重視し、原型のまま後世に残すことが重要であると考えていました。そのため、1987年の操業停止から、2005年までの18年間もの間、現地に管理事務所を設置し、「売らない」「貸さない」「壊さない」の姿勢で建物の保全管理に努めました。そして、2005年には、富岡工場(現:富岡製糸場)の建物等を富岡市に寄付しました。
片倉工業から富岡市に寄付された後、2006年7月に富岡製糸場の主な建造物が重要文化財に指定されます。その後、2014年に、日本の近代化の歴史を刻む貴重な史跡として、 「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコ世界遺産に登録されました。また、同年には、繰糸所、東置繭所、西置繭所の三棟が国宝に指定されました。
画像提供 富岡市
2015年4月にコクーン2、同年7月にコクーン3をオープンするとともに、さいたま新都心駅前社有地商業エリアの名称を「コクーンシティ」としました。コクーンシティでは、ショッピングセンターだけでなく、住宅展示場、結婚式場、介護施設等の様々な施設を有しており、地域のお客様のニーズに寄り添いながら、発展しています。
2021年から2022年にかけて、コクーンシティでは、大型マンション・公共施設・オフィスの開業等が相次ぐ足元(さいたま新都心エリア)の街の成長に合わせて、お客様のライフスタイルに寄り添い、暮らしを豊かにするリニューアルを実施しました。これらの積極的な取り組みの結果、開業7年目(2021年9月~2022年8月)のコクーンシティのショッピングセンター売上高は381億円と、目標を大きく上回りました。
片倉工業はこれからも、地域の皆様に愛され地域の発展に貢献する街づくりを進めていきます。
生糸を出荷する際、高品質の証として製造元別に付けられた『商標』。工場ごとにオリジナリティあふれるデザインを使用していました。懐かしい雰囲気が漂う、各工場の商標イメージをご覧いただけます。 ※地図は1937年当時のもの 「片倉製絲紡績株式会社二十年史」より抜粋