撮影者:吉田敬子
当社は、富岡製糸場の操業開始の翌年、1873年(明治6年)に長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)で10人取の座繰製糸を開始(創業)いたしました。その当時に思いを馳せますと、初代社長の片倉兼太郎には、富岡製糸場の近代的な設備、西欧の器械製糸技術や新しい工場制度などへの「驚き」と「あこがれ」があったのではないか、と考えております。
当社は富岡製糸場を所有した後、戦時中の混乱期も途切れることなく操業いたしました。また、常に「進取の精神」をもち、蚕種改良と世界初の全自動繰糸機の開発などの「技術革新」によりシルク産業における世界との架け橋となりました。
1987年(昭和62年)に富岡製糸場を操業停止し、2005年(平成17年)に富岡市に寄贈いたしました。この寄贈するまでの18年間については、「売らない」「貸さない」「壊さない」という気持ちで保存してまいりました。これは、明治以降の日本の近代化の原動力となった製糸業の役割を認識し、建物が持つ歴史への畏怖の念から、その原型を残すことが重要であると考えたためでございます。また管理事務所を設置し、特に落雷、火災などの自然災害に細心の注意を払い、建物の保全管理に努めてまいりました。
操業当初からの富岡製糸場関係者の富国繁栄・殖産興業への意気盛んな精神が、今後とも脈々として受け継がれ、「富岡製糸場」が「絹産業遺産群」と共に物心両面で若々しく活気をもって後世に継承されていくことを祈念いたします。
富岡製糸場は、明治5年(1872)明治政府が近代化政策のもと、主要輸出品である生糸の品質向上と増産を目指して設立した日本で最初の官営模範器械製糸工場です。 明治政府が雇ったフランス人技師ポール・ブリュナの指導のもとで、建物の建設と器械製糸技術の導入が計画されました。繰糸器などはフランスから輸入されましたが、石や木材などは群馬県内から調達し、レンガはブリュナの指導のもと日本の瓦職人が製造しました。
日本人の大工職人によって建てられた建物は、木骨レンガ造やトラス構造といった西欧技術と、日本瓦の屋根などの在来技術を結集したものでした。
また、全国から集まった工女はフランス人技術者から器械製糸技術を学び、故郷に戻った後、各地に設立された製糸工場で指導者となり、器械製糸の伝播に貢献しました。
明治政府が作った官営工場の中で、ほぼ完全な形で残っているのは富岡製糸場だけとなっています。
富岡製糸場は明治26年(1893)に三井家に払い下げられ、その後、明治35年(1902)には原合名会社に譲渡され、 昭和14年(1939)には、片倉工業株式会社(当時:片倉製糸紡織株式会社)に合併されました。
第二次世界大戦後には全面的に自動繰糸機を導入し、生産効率を大きく向上させ、高品質な生糸を大量に生産しました。
その後、昭和62年(1987)に、海外からの安い生糸の輸入の影響などを受け、操業から115年続いた生糸生産を停止し、操業停止後も片倉工業株式会社が管理していました。閉所から2005(平成17)年までの18年の間、その歴史的・文化的価値を認識し、保存管理に努めました。
当映像は、富岡工場を閉所時に製作したものを再編集いたしました。(4分50秒)
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