絹のまち糸都岡谷 Vol.1
~岡谷の歴史~

明治~昭和初期にかけて日本の主要産業であった製糸。
当時、世界一の生糸の輸出量を誇った長野県岡谷市を訪ねました。

製糸に沸いた激動の時代

静かな農村から世界へ

長野県諏訪地方、岡谷市。諏訪湖が美しいこの地は、かつて明治の初めから戦後にかけて、世界一の輸出量を誇った生糸の製糸業に沸いた街です。
※岡谷市:旧平野村、川岸村、湊村含む

江戸時代から明治初めの頃、日本の多くの農村では冬場など主業の休業時期に、収入源確保として生糸の生産を行っているところが多くありました。
生糸の原料となる繭を生む「蚕」の養蚕をする者、繭を仕入れて糸取りをする座繰りの製糸業(いわば家内製糸工場)など、小規模での生糸生産が運営されており、岡谷もその一つでした。

ではなぜ、長野の農村の一つであった岡谷の地が、世界一の製糸の街になったのか。

シルクをめぐる世界と日本

古く5千年以上の歴史を持つ「シルク」は、中国からシルクロードを経由して中世の頃に欧州に伝わり、貴族社会の中で一気に花開きます。

しかし、1840年頃(日本でいえば江戸時代の後期)、シルクの生産主流国であったヨーロッパ各国において蚕の伝染病が蔓延し、蚕の全滅に近い大打撃をうける事態が発生します。病気に侵されていない蚕をもとめ、遥かかなたである東洋の端、日本にも使命をもった欧州の使者が来航していました。

やがて江戸時代の終わりとともに明治開国、欧米と並ぶ国力を目指し、貿易による「外貨」の獲得が国策となっていきます。
資源の乏しい日本国内でも原料から生産でき、前述にもある欧州の蚕病に伴って依然と高い輸出ニーズのある「生糸」に徐々に注目が集まり、やがて生糸は、国内最大の輸出品の一つとして、巨大な市場に成長していきました。

「製糸業」と「生死業」

明治初期は欧州へ、その後主にアメリカへ出荷され、岡谷は大正から昭和初期にかけて輸出量の大きいアメリカ向けの生糸の生産を行い、急激に成長していきます。

当時、生糸の価格は暴れ馬と称されるほどに乱高下(変動)を繰り返す中、原料の繭は「なまもの」であり、時期を逃すと出蛾してしまうため、糸をとることができませんでした。

しかも季節限定でしか手に入らないため、一括で仕入れなければならず、経営には不安定な要素を含んでいました。

そのため製糸業は「生死業」とも言われ、生き残るのが過酷な生業でもありました。
さらに普通糸として出荷されていたアメリカ向け生糸も、年を追うごとに厳しい品質を求められるようになります。

岡谷の製糸家たちは激変する生糸の価格や欧米からの厳しい品質検査に翻弄されながらも、良質な生糸の生産を行っていきます。

世界一の出荷量へと成長

1万梱を超える生産を可能とした工場の半数を岡谷の工場が占め、ついに昭和元年に日本は世界1位の生糸生産量を突破。
「世界の岡谷」として、一時期は約3万人の工女が諏訪湖の周りで働いていたといわれるほど、かつての静かな農村が製糸の街へと変貌していったのです。
(大正6年には片倉組が3万梱超え、山十組が2万6千梱、小口組が1万6千梱と、岡谷の製糸家がビッグスリーとして君臨。)

世界にとどろく製糸工業都市であった糸都岡谷も、近代化により生糸に代わる繊維の普及や、養蚕農家の減少によって徐々に生産量が減り、代わりに精密機械工業などが進出していきます。
日本を支えた岡谷の各所には、製糸に沸いた当時の痕跡が今も遺されています。

参考文献
著/矢木明夫「岡谷の製糸業」日本経済評論者197p